目を見ればわかるなんて

27歳社会人のブログ。

You&Jのあった時代その③~KAT-TUN編「What You Worry About Will be All Right」

You&Jの末っ子で一番の問題児といえばKAT-TUNです。(違った意味で長男のNEWSも問題児グループですが…。)

 

KAT-TUNはデビュー前後の2005~2007頃にはジャニーズ史上でも類を見ないほどの人気を誇ったグループでした。

人気という指標は取り方が難しい面がありますが、シングル、アルバム、DVDという定量で測れる主要項目を総ナメしていたという意味で、最も勢いのあったグループの一つと言えます。もちろん売上がすべてではありませんが、測りやすい指標の一つです。

 

少年御三家の場合は光GENJIの爆発のあとは、男闘呼組がややヒット、忍者は今一つ、という結果を見れば尻すぼみな形になったわけですが、You&Jの場合はラストに控えているのがジュニア最高クラスの人気を誇るグループだったわけですね。(ちなみにYou&JというファンクラブはKAT-TUNがデビューした後に宙に浮いていた2グループとの合同という形で設立されたので、この時点では世に存在していません。)

私が光GENJIがどれだけ流行っていたかを本当の意味でわからないように、同時代を生きた人間でないとわかりづらい部分はきっとあるだろうと思います。

 

まずKAT-TUNは過去最高クラスに顔面偏差値が高いグループでした。

人気の根幹を為す仁亀は言わずもがな、長身で涼やかな笑顔の田口くん、坊主でもロン毛でもカッコよかった聖くん、ヴィジュアル系の上田くん、そして良い人オーラのすごい中丸くん。上田くんはちょっと迷走した時期もありましたが、みんな個性もありました。

亀梨君の主旋に赤西くんの高音ハモの歌はとても聞きごたえがありましたし、聖くんのラップと中丸くんのHBBなど歌唱面はもちろん、堂本光一くんのバックを務めていただけあって個々のダンスの技術も高かったです。

ただ、ジャニーズ的には少年隊を頂点としたミュージカル風の揃ったダンスが至高とされるため、ブラックでストリートでアレンジ多めなダンスのKAT-TUNはバラバラだとか揃わないとかよく揶揄されていました。この辺はSMAPと似てますね。

事務所からもかなり期待をかけられていたので、嵐のJ storm以来の専用レーベルであるJ One Recordsも用意されています。

 

KAT-TUNがデビューしたのは2006年ですが、結成は2001年に遡ります。その後、2002年の初の単独コンサートの時点で55万人の応募があり、こちらはソフト化されました。

その後、2005年の単独ライブ「Live海賊帆」もDVDで発売され、デビュー前にも関わらず年間音楽DVD部門で国内1位を取っており、デビュー前時点でのすさまじい勢いは明らかです。

 

それまでのジャニーズはお茶の間受けする、品行方正なアイドル像を基本線としていたわけですが(なのでスキャンダルを過度に嫌うわけですが)、KAT-TUNは明らかにギラギラしていました。ワイルドでセクシーな色気が立ち込めていました。

サクラップとはテイストの違う攻撃的なラップが入っていたり、エロティックな振付をしてみたり、舌打ちしてみたりとロックな姿勢でしたのでお茶の間受けは確実によくなかっただろうと思われますが、かなり異例のグループであったためこれまでジャニーズに興味を持っていなかった層を取り込んだと思われます。

 

当時の時代性を紐解くと、デビュー組の頂点として特殊な立ち位置にいたSMAPは『世界に一つだけの花』と主題歌になっていた草彅くんのヒューマンドラマ『僕の生きる道』を機にアイドルという語義を変容させつつありました。女性から嬌声を浴びるグループというよりもお茶の間になくてはならない存在となっていきます。この立ち位置はこの後は嵐に受け継がれています。

ナンバーワンにならなくてもいい、というフレーズは世間に遍く浸透し、槇原敬之のシャブ代を稼ぐのにも一役買いましたが、教科書めいた人類愛に行き着いた結果、達観したようなグループとなっていきます。

 

また、97年のデビュー以来CDセールスの安定感ではジャニーズのトップを走り続けてきたkinki kidsは二人がソロで色々やるようになり、コンビとしての活動はやや抑えめになります。また、剛くんがどんどん奇抜になっていき、メッセージ性の強い曲が増えてきていました。依然第一線にはいましたが大ヒットを飛ばす事はなくなっていきます。

メッセージ性の強い曲は諸刃の刃で、アーティストとしての格は上がりますが後々の活動に制限を与えるものです。愛だの恋だのしょうもない事をポップに歌えるうちが華なのです。

 

こうしてそれまで栄華を極めたSMAP・キンキ体制は2004年で一旦終焉を迎えたわけです(キンキは翌年「Anniversary」でヒットを飛ばしますが)。ジャニーズの一番手となるとグループの固定ファンで数十万枚は売れるわけですが、そこからもう一つヒットするには楽曲の良さか時代性の後押しがないと難しいです。

なのでこの時期はCDセールスという指標においてジャニーズの支配力がやや弱まっていました。これはCD媒体の凋落とも無関係ではありませんが、どれだけ偉大なアーティストでもいつまでもチャートの上位にいられないわけです。

90年代CD黄金期でのチャゲアスもB'zもミスチル小室ファミリーも、チャートを独占したりして栄華を極めたのは数年が限度でした。たくさん聞かれれば大衆には飽きられてしまいます。供給過多の音楽業界ではマスに受ける事は鮮度を短くする事なのです。

だからみんな売れていい思いをした後に「人気取りのヒットチャートなんて無意味だ」みたいな曲を歌ってみたりするわけです。

 

ジャニーズに話を戻します。

2002年に事務所としてシングル年間トップ10を出せなかった事を受けて、ジュニアトップの山下くんをエースとして結成されたのがNEWSでした。が、不祥事で躓きました。

2004年にデビュー組の錦戸・内を擁する関ジャニをデビューさせたら兼務の内くんが問題を起こし、NEWSも関ジャニもダメージを負いました。

このように若いグループを売り出したいのにうまくいかない状況が続いていました。

 

そこで次なるデビュー候補として白羽の矢が立ったのがジュニアで十分な人気を得ていたKAT-TUNなわけですが、直近でデビュー後の問題が続いた事から、少なくとも飲酒がらみの不祥事は無くすためにメンバー全員が成人するまで待つことになります。

そこで、このアイドルタイムにジャニーズ伝統の手法であるドラマや歌番組などで露出を増やして焦らしてデビュー時に爆発させる下準備をすることになります。

 

その結果、過去マツジュンを売れっ子にした『ごくせん』の第二シリーズで赤西くんと亀梨くんがかなり名前を売ります。嵐ファンには「ごく出は永遠の新規」という概念がありますが、こちらはデビュー前に青田買い出来るチャンスだったわけですね。お得ですね。

 

そして極め付けにNEWSの活動で足踏みが続いていた山下くんとセットで出た『野ブタをプロデュース』で亀梨くんは大出世を果たし、主題歌であった『青春アミーゴ』の大ヒットもあり、デビュー前から一躍時代の寵児となります。

結局『青春アミーゴ』は2005年シングル年間1位、2006年も年間3位と売れに売れます。これだけ売れて世間を巻き込んで誰でも歌える流行歌はこれ以降のジャニーズでは出ていません。ちなみに二年連続で年間売上トップ10に入るのは宮史郎とぴんからトリオの『女のみち』以来です。もうここまで来ると歴史のレベルですね。

2005年頃は『ファンタスティポ』もあり、グループの垣根を越えたコラボが続いていました。事務所としても停滞した状況を何とか打破しようと模索していた時期でした。

この二曲はどちらも独特の振付があり、ちょっと前でいう「踊ってみた」みたいなのが全国津々浦々で繰り広げられていました。恐らく忘年会や結婚式二次会などでは死ぬほど踊られていたのだろうと推測されます。古くはピンク・レディーのヒットから続いていますが、振コピしたくなる曲はセールスの上でとても強いです。当時はスマホも無く、まだダンスの練習にCDラジカセを使用する時代でした。

Youtubeも無かった時代の振りコピは今と比べ物にならないほどハードルが高かったわけですが、それを踊りたい、真似したい、と思わせるのが流行歌の持つ引力だったわけです。

 

そして2006年、とうとう満を持して『Real face』が発売されます。

出だしから炸裂する仁亀の二枚看板。松本孝弘の重厚なサウンド。艶っぽいキレのあるセクシーダンス。聖くんの攻撃的なラップ。赤西くんのファルセット。亀梨くんの舌打ち。Aメロの赤西くんが上田くんの体をなぞる所は何度も見返しました。J.O.K.E.Rとかいう設定やサビ前で舌打ちをする、という発想も斬新でした。KAT-TUNの世界観を打ち出した最高傑作と言っても過言ではありません。

バージョン違い6種で各メンバーのセンターVerと多種類展開したのも寄与しましたが、3週連続1位を獲得、ミリオンセールスも記録し、流行りに流行りました。亀梨くんは2005年『青春アミーゴ』に続いて二年連続で一番シングルを売った事になります。

 

『Real face』についてはカップリングも『GLORIA』とみんな大好きウィルビーこと『will be all right』です。収録されてる三曲全部名曲ってどういうことですか。そりゃ売れますよ。

同時発売だったアルバムの『Best of KAT-TUN』も一位を獲得します。デビューでベスト盤というのが少し混乱しますが、これもキンキと似てますね。デビュー前でも持ち曲が多数あるからこういうことも出来るわけです。

同時発売のDVDももちろん一位を獲得し、こうしてKAT-TUNはデビューでシングル、アルバム、音楽DVDの主要三部門を総ナメします。シングルとDVDについては年間一位でもありました。少なくともこの時点でKAT-TUNは一度天下を取りました。これからのジャニーズを背負って立つ存在になると誰もが疑いませんでした。

 

しかし、輝かしい光の時代があったからこそ、その影も大きくなります。

赤西くんはKAT-TUN人気の根幹をなす存在でしたが、デビューから半年ほど経った2006年の10月、突如米国へ留学するため芸能活動を休止することとなります。そのため、シングルや番組出演は残された5人で行うようになります。この頃からやや不穏な空気がKAT-TUNを覆い始めました。

 

赤西くんは2007年4月に帰国して復帰するわけですが、ファンも世間も今ひとつ釈然としない思いを抱えるようになります。また、この頃はCDセールスもコンサートも依然絶好調でしたが、週刊誌でのバッシングも増え始めます。女絡みが多かった記憶ですが、問題児としての印象はどんどん強くなっていきました。特定メンバーがアンコールに出てこなかったとか、態度が悪かったとか、メンバー同士の諍いがあったとか、ソースのあるものないもの、噂も事欠きませんでした。この辺りから少し事務所がKAT-TUNを持て余している感じが出てきます。

 

期待を受けて実績も付いてきて順風満帆に行くはずのKAT-TUNでしたが、ファンの内ゲバも多かったです。この頃はmixiや個人ブログなどが情報源でしたので、ブックマークやマイミク(mixiでいう友達的なやつです)の少数の長い意見を見る、という時代でした。個人の情報発信はまだまだ黎明期で、強い思想のある人の意見が目立った時代でした。ファンコミュニティでの交流が主体であったので誇張されて尾鰭が付いて大きな噂となっていた部分もあったと思います。

ジャニーズのファンは特定メンバー担、グループ担、特定メンバー担のグループ担、事務所担のグループ担など様々な担当の形があり、週刊誌やコミュニティで黒い噂が出るたびに特定メンバーを標的とした叩きが横行するようになります。

 

そして赤西くんは2010年、KAT-TUNのコンサートを欠席して二度目の渡米をし、コンサート日程の途中で正式に脱退する事が発表されます。途中までは「脱退はない、解散もない」という話だったので、驚いた人も多かったと思います。赤西くんは雰囲気も言動も行動もKAT-TUNを象徴する一人でもあったので、少しインパクトが薄まった印象は否めませんでした。

 

但し、赤西くんが抜けてもグループとしての活動は続きます。

2010年代にはAKBグループの台頭によりCD売上という指標は本格的に陳腐化していました。2010年のシングルトップ10はAKBが4曲、嵐が6曲と、もはやCDを買うのはアイドル好きだけという時代になっていました。ここから2019年に至るまで、AKB48以外が年間一位を取る事はなくなります。

一方でKAT-TUNは赤西くんが抜けて以降は少し落ち着いたポップな曲が多くなっていき、尖った印象が薄れていきます。聖くんがトレードマークだったスキンヘッドを止めたのもこの頃からです。ポップさが増すにつれてシングルでのラップパートも少なくなっていきました。

そして2013年に聖くんは「度重なるルール違反」という理由でほぼ強制的に退所する事になります。事実上の解雇です。ここでは多くを書きませんが、このような形で終わるとは誰も想像していなかったでしょう。ここから一定期間、ラップパートは封印されることとなります。

 

語りつくされているとは思いますが、KAT-TUNには3年ごとに危機が訪れる、というジンクスがありました。2010年に赤西くん、2013年に聖くんが抜けました。そして、2016年の10周年の節目に田口くんも抜ける事となり、2017年末までKAT-TUNとは充電期間となります。

4人体制もそれなりに落ち着いていて、尖った二人が抜けた事で毒が抜けて随分とお茶の間受けするアイドルになっていたのですが、のちの報道を見るに迷惑を避けての脱退だったのかもしれません。真相は今となってはすべて闇の中です。

ただ、KAT-TUNもだいぶ丸くなっていてバラエティなどではかなり脱退者をネタにしたりして美味しい感じでイジられてもいました。NEWSのような悲壮感はなく、関ジャニほど自分から食い気味にネタにするわけでもなく、メンバーもいい大人になったんだな、と感じられました。

 

こうして6人いたメンバーは半分にまで減りました。 

 

KAT-TUNはそれぞれのイニシャルを並べたグループ名で結成されました。

例えば、他のNEWSなどはグループ名にそれほど固有のものはありません。9人から3人になってもNEWSはNEWSで何の問題もありません。

しかしKAT-TUNは6人の頭文字なのです。グループ名の由来を尋ねられた時に、構成要素の一人一人が欠けた悲しみを想起せずにはいられませんでした。どのグループにおいてもメンバーの重い軽いはありませんが、デビュー後の追加メンバー加入が無いジャニーズにおいて、KAT-TUNという名前である事はメンバーが6人いた事とそれぞれのイニシャルのメンバーがいた事の証として残り続けていくわけです。

一人、また一人と欠けていき、その度にKAで亀梨、T-TUで竜也上田だ、とか誰の目にも苦しい理由付けをしながらでもKAT-TUNは続いてきました。今の三人はそれぞれソロでも活躍しているため別に解散してもそれほど個々人の仕事に差し支えはないだろうと思われますが、KAT-TUNという名前を残していくために賛否あるReal Face#2を歌ってでも続けてきたのです。

 

他のグループがそうでない訳ではないですが、KAT-TUNにはあの6人にしか分かり合えない絆が確かに存在すると信じられるだけの雰囲気がありました。個性が強くて時にはぶつかりあうけども、お互いの事はよくわかっていて信頼し合ってる、と思わせるものがありました。

不良に惹かれるという層は一定数いますが、普段悪そうにしてる兄ちゃんたちがある一瞬、仲間に見せる心を許した瞬間のギャップにやられるわけです。これは異性に対して見せる顔とはまったく別種のものです。ヘテロフォビアな世界です。はぐれものの不良達が身を寄せ合ってお互いを信じて、管理社会に唾を吐く姿に憧れるわけです。

思えばKAT-TUNは週刊誌を始めとしたマスメディアや事務所、世間のルールなど、「大人」や「社会」へ反抗したグループでした。個性的な集団だからこそ、既存のルールや入れ物に合わなかった。まさに不良の世界観ですね。KAT-TUNはベタベタ仲良く馴れ合う姿を見せるグループではありませんでしたが、互いをリスペクトしているのは伝わってきましたし、同じグループで活動する事はなくなっても仲間なのだという姿勢は強く感じられました。

 

メンバーが抜けた時にはいつもソース不明の不仲説が出ました。マスコミや事務所に対しての不満は募るばかりでした。満足のいく説明もなく、その度にファンは傷つきました。だからこそ、ファンはMCやジャニーズWebでのちょっとしたコメント、ラジオでのお互いへの言及などでメンバー同士の絆を感じ取りました。

 冠番組が終わったり、特定メンバーの仕事が少なくなっていくのを見てなんとなく不穏な空気を感じながらも、ちょっとしたコメントなどに一抹の期待をかけていたわけです。そして突然メンバーが欠けてしまう事に強いショックを覚えた人が多かったと思います。ファンは満足いく説明がもらえないままにメンバーが欠けていくグループを応援し続けました。

 

結果的に色々昔はやんちゃもしたけど今は大人になってそれぞれのソロ活動で頑張っている感じもちょっとヤンキー感がある気がします。青春の一瞬を共に過ごした仲間の事は今でも大事にしているといいますか。亀梨くんも上田くんも中丸くんもいい人オーラがすごすぎてびっくりします。

 

相当長くなってしまいましたが、これがKAT-TUNの物語だと思うわけです。

バレーユニットのように必然性無く集まったわけではなく、6人で結成してグループ過多のジュニアを勝ち上がり、個性の強さからケンカもしたけども認め合って。そしてデビューして輝かしい成功を手にするも、結果的には別々の道を歩むことになって。でも苦楽をともにした6人の絆は永遠だ、という感じが尊いと思うのですね。

世に出ているコメント以上の想いを想像できる余白があるとでも言いましょうか。世間にも、芸能界にも、事務所の誰にも理解できなくても、6人にしかわからない絆があるんだな、と思えました。そう、まさにKAT-TUNにはKAT-TUNにしかわからない文脈があり、それをわかるのは当事者だけ、という空気がありました。

 

当時は若かったメンバーも今となってはみんな30をとうに越えていい大人となってしまいました。「あの頃の未来に僕らは立っているのかなぁ」とSMAPがかつて歌いましたが、当時戦っていた大人側の立場になった彼らは今何を思うのでしょうか。

 

気付けば文字数がかなり行ってしまいましたのでこの辺で。