目を見ればわかるなんて

27歳社会人のブログ。

ラブライブサンシャイン感想(第8話まで)

とうとうラブライブサンシャインが始まりました。現在第8話。

Twitterで感想を書こうかと思ったのですが ネタバレは本意でないし、

分量が増えそうなのでブログをはじめました。

 

 サンシャインを見ていて初めに思ったことが、あっ、このラブライブというコンテンツは戦隊もののように、物語を進めるうえでスクールアイドルに必要な役割を受け継がせるシステムで進めていくんだ、という事。つまり、ある種のステレオタイプを作っていくことで「この子はこの役割のキャラね」ということを視聴者にわかりやすく提示するんだなっていうこと。

 

この考え方自体がある種、舞台的というか、狂言回しを含めて必須の役割がいくつか存在していて、誰が特定の役割を演じるのか、ということによって同じような境遇、同じようなキャラの子の色を出していくんだな、と感じた。もちろん公野櫻子先生が作るキャラが大体似通ってる、というのは禁句で。

 

穂乃果の役割を担う千歌ちゃんをはじめ、ダイヤさんがエリチ、ルビィがかよちんに憧れていて、花丸が凛ちゃんをしきりに意識している設定なんかも、このラブライブという大河ドラマにおいて物語や演者側の必要性に迫られての世代交代以上に、重要な意味を持っているように思う。

 

たとえば、ダイヤ会長が主人公率いるAqoursと過去の経験ゆえに対立し、スクールアイドルとは別の方法で廃校を救おうとする、序盤の敵役イメージなのは無印におけるエリチの物語の焼き直しでは全くないし、全国に数多いるμ'sになれなかったグループのその後を描く、という物語性はラブライブの世界観を支える太い骨子の一つになっている。

 

 

そして、サンシャインという新しい物語を語るうえで力強い骨組みとして生きているのは「地方と都会の格差」ですね。ダイヤ会長の率いたスクールアイドルが廃校を救おうとして挫折した、という経緯を含めて、一貫して描かれているのは地方と都会の格差に尽きます。この点については非常に丹念だと思う。

 

静岡の沼津の近くの漁港の町。網元やホテルをやってる地主が力を持っているというのがいい。仕事柄、地方の卸売市場を知る機会が時々ありますが、地方の衰退は恐ろしいものがあります。

昔は江戸時代の株仲間のように、商売したければ地元の漁協や農協などに出資して地域の利権団体に参加していないと商品の取扱いすらままならなかったわけですが、今は市場の自由化や過疎化によって後継者難で地方市場は倒産してしまったり、どこかと統合をしなければ生き残れなくなってきています。まだまだ地方が元気な所もあるにはありますが、なかなかに限られています。流通という世界では思っている以上に淘汰が進んでいるのです。そういった雰囲気が、漁港の町である沼津市からも感じられます。

 

音乃木坂に通っていた少女たちは基本は徒歩圏内の地元の子たちで、遅くまで残っても歩いて帰れる距離に家があって、矢澤さんは複雑な感じだったので例外かもしれませんが、基本的には中流~そこそこ裕福な持ち家の家庭で、一等地の私立と思われる女子高に通っているという設定でした。

これも首都圏に縁がないとわからないことですが、23区内でも千代田区というのは地価がべらぼうに高い地域で、そこで家を持っているor借りているというのはそこそこにアッパー層なわけですね。だからみんな満員電車に乗ってでも埼玉とか千葉に住むわけです。

 

つまり、ここで言いたいのは、音乃木坂高校が一極集中を続ける都会の一等地にあって、入学者が減って廃校の危機を迎えたのと、浦の星女学院が衰退していく地方都市の過疎によって入学者数が減っているのは同じ廃校の危機でも根本にある問題が異なっているということで、つまり、解決しなければならない問題の性質が全く違うわけですよ。ただの女子高の統廃合というミクロな視点だけでは語れない問題があるわけです。

 

そういったわけで、地方で生まれ、生きていく、ということはこれからの時代、難しい問題がたくさん待っているわけです。「地方消滅」というタイトルの新書がヒットしましたが、政令指定都市以下の規模の都市では否応なくこの問題と向き合わなければならないわけです。

 

もう一つの切り口として、少女たちの精神の乖離もポイントです。

ネットが極限まで広く伝播し、遍くユビキタス社会の恩恵に授かっている現代において、地方の少女たちは、昔と違ってテレビで放映がなくてもネットで好きなものを見れるし、繁華街がなくたってアマゾンがあれば買い物にも不自由はしないわけです。

しかし、実は人口過密の都会と比べて、最寄りの駅ですら夜は誰もいないような自分の住んでいる町との格差に、心底絶望している実情があるわけですね。

住んでみれば都会が楽しいことばかりじゃないことは知らないけど、世の中にあるキラキラした文化や流行が、自分の住む町にあるものではないことは確実に知っているわけです。

 

これはクドカンが2012年に手がけた朝ドラ「あまちゃん」でもかなりフィーチャーされた部分で、宇野常寛氏が著書のあまちゃん評において触れたように「内面のイマジナリーな過剰さと街のスカスカ感の落差が地方少女の独特の感性を作り上げて」いるのです。

 

流行りの服を買ったって着ていく場所も近くにないし、映画を見に行くにも電車で一時間かけて主要都市に行かなければならない自分の町を「何もない」と言い切れるほどに絶望しているのですね。そして自分の町より遥かに大きい中核市クラスですら都会と比べたらちっぽけで、それは第8話の

 

「1300万人も人が住んでいるのよ…(中略)、やっぱり違うのかな…そういうところで暮らしていると…」

 

というセリフからも読み取れる。

 

ダイヤさんを初めとして、地元の人たちがみんな口を揃えて「田舎じゃスクールアイドルなんて無理だよ」と言うのもこの問題を強調しているわけで、都会で流行ったことが数巡遅れて地方にやってくるけれども、東京や大阪で出来ることが同じように田舎で出来るわけではない、ということをみんなわかっているんですね。

 

流行りを理解している人の数も、熱量も周囲からの理解のされ方も違う。憧れはするし、やれるならやってみたいけども、それが地元で実現する可能性が低いということは嫌というほどわかっているわけです。

 

ちょうど無印の劇場版でアキバが「なんでも受け入れてくれる場所」と紹介されたのとは対照的に、新しいものを受け入れること、何かに夢中になることをどこか恐れている雰囲気が、田舎にはあります。だから、都会で流行っていることを安易に田舎へ持ち込むことの無謀さを地方出身者はわかっているんですね。

沼津と同じくらいの規模の町で育った私には諫める周囲の気持ちもわかるし、でも打ち込めることが見つからなくて何かに夢中になりたい千歌の気持ちもわかる。

 

下妻物語」とかでもあった話ですが、結局、東京でならリトルボーピープの服を着ていても「まぁこんな人もいるよね」程度で済むし辛くなっても他に受け皿、要するに同好の士も見つけられるけど、田舎なら迫害の対象になってしまう。

悪目立ちすることが好ましくないのはヨハネ回でも触れられていますが、自己実現の形を誤れば、学生生活を棒に振ってしまう可能性もあるのです。コミュニティに縛られるのは田舎の持つ特性の一つですね。

 

 

「何かに夢中になりたくて。何かに全力になりたくて。脇目も振らずに走りたくて。でも、何をやっていいのかわからなくて。(第1話アバン)」

 

千歌の冒頭の台詞は地方の若者を包む無気力感、憂鬱を端的に表しています。

これは都会で暮らす人間が感じている「周りにはたくさんの物があって、物質的に恵まれているからこそ何に手を出していいかわからない」ではなく、「周りには何もないし、限られた選択肢の中に夢中になれるものがない」状況が、この作品のスタートラインにあることを提示しているのですね。穂乃果と千歌では生まれから住環境から前提条件が全く違っているのです。

だから、サンシャインは見かけ上は無印のストーリーラインを丁寧になぞっているようでいて、実は全く違った文脈が横たわっているのである。

 

第6話で廃校を阻止するために自分たちのPVを作ることになったAqoursの面々。

紆余曲折して、最終的に風景や観光名所を映す(=旧来の観光産業的な売り出し方)のではなくて、人の温かさや伝統、土着的な行事とスクールアイドル文化を融合させた映像を作り上げます。これは「ここに来ればこういう人たちと会える、触れ合える」という売り出し方を選択したということなのです。

だからこの回は、十代の少女たちが打ち出したの生き残りの戦略が、土地自体のアピールではなく、そこで暮らす人々や固有の文化こそがコミュニティの基盤なんだ、というメッセージ性の強い回だったと思うのです。その際の千歌のモノローグがまた心を打たれる。

 

 

「私心の中でずっと叫んでた。助けてって。ここには何もないって。でも違ったんだ。追いかけてみせるよ。ずっとずっと。この場所から始めるんだ!(第6話)」

 

 

これはラブライブサンシャインという作品における強烈なパンチラインだと思うのですね。

つまり、千歌ちゃんに仮託した地方の少女たちが、一度は自分の住む町に絶望して、そして受け容れる再生の物語を第6話まで使って描いていると思うのです。

そして第7話以降で東京との格差を体感し、最終的に共生するのか代理戦争するのかわからないですが、ラブライブサンシャインは「あまちゃん」と同じく地方再生の物語となっていくと思う。

無印が割と少女たちの部活動という狭く閉じた輪の中で理事長以外の大人たちの介入を得ずに進んでいったのと比べて、サンシャインでは親、兄弟、近所の人たちといったコミュニティのつながりがより色濃く描かれているのも無関係でないと思う。

 

自分たちの住む町を受け入れ、立ち上がったAqoursが東京との格差、規模の違い、全国における自分たちの立ち位置を目の当たりにする様子が「TOKYO」「くやしくないの?」で描かれていますが、第9話以降、どうやって相克していくのか。

 

私がそうであるように、地方にある倦怠感や停滞感を肌身で感じ、街のピークが高度経済成長以前でとっくに終わった第一次、第二次産業の街から都会に出てきた人たちにとって無印とサンシャインは心に刺さる作品になっていると思います。 

三年生も仲間に入ってくることですし、これからの物語に期待ですね。