目を見ればわかるなんて

27歳社会人のブログ。

27歳の未熟DREAMER(サンシャイン9話感想)

さてさて、第9話にて無事成仏させていただいて、アラサーにもなって画面を見て嗚咽を漏らしていたわけですが、恐ろしいくらい三年生回でしたね。まぁ今思えば三年生回以外に考えられなかったわけで私が浅はかでした。

 

三年生の関係性最高過ぎて言葉が出ないくらいに感動して、中断しつつでないと先を見れなかったんですが、なんとか最後まで見終えました。アニメを見て身もだえしながら髪をかきむしったのは久々ですね。日々の仕事に強く影響が出てしまうくらいダメージを受けました。

 

かなまり党の方々が発狂するのもわかりますよ。なんだこれは。

千歌が喧嘩の仲裁してる辺りまでは、果南さんはまぁブチ切れたりしたけど、シリアスと見せかけてコミカルに行くのかな、過去のトラウマみたいなのあっても千歌が笑い飛ばす感じなのかなーとか思っていたんですが、中盤からの畳みかける展開にはアラサーの私も完全にノックアウトされました。

 

前の記事でμ'sになれなかった子たちの物語、という事を書いたんですが、先代Aqoursはことりの留学を止めなかったμ’sの物語だったんですね。非常に得心が行きました。

 

無印一期でことりの留学を引き留めたことについては非常に物議を醸しました。今でこそラブライブは超が付いても足りないくらいの人気アニメとなりましたけど、当時は数あるアニメの中の一つで、終盤の展開は賛否ある感じでした。ことりの将来を考えたら行かせてやるべきだった、という論調も多かったように思います。

高校時代の衝動的な思い付きで、その後の人生を左右するような決断をすべきなのか、ということですよね。将来設計まで考えたアドバイスをするのが友人じゃないのか、と。

 

その批判を真っ向から受け止めたのが今回の展開なわけですね。

まぁ留学に対するモチベーションがことりと鞠莉で違う気もしなくもないですが。

 

「今度は誰も悲しませないことをやりたいな。自分勝手にならずに済んで、でも楽しくて、沢山の人を笑顔にするために頑張ることが出来て。でもそんなもの、あるのかな?(無印最終話・穂乃果)」

 

ライブで失敗して迷惑をかけて、ことりも留学してボロボロの穂乃果が言ったセリフはこれでした。無印のテーマは「やりたい事をやろう」でしたが、この場合はμ's9人の「やりたい事」の方向性が合致していたわけですね。そこに唐突に将来の話が出て、トラブルも重なって、音乃木坂学園の存続も含めて、あくまで在校生の将来まで考えている理事長との見据える方向性の違いが浮き彫りになるのが無印のストーリーなのですが、最終的には、

 

「ことりちゃん、ごめん! 私、スクールアイドルやりたいの! ことりちゃんと一緒にやりたいの!いつか、別の夢に向かう時が来るとしても。行かないで!」

「ううん。私の方こそごめん。私、自分の気持ち、わかってたのに……!」

 

というのが無印の終盤のあらすじでした。穂乃果がごめん!と言いつつも我を通し、なぜかことりサイドも謝罪する、という顛末でハッピーエンド感があるのは穂乃果のすさまじい引力のなせる業ですね。

穂乃果がことりの「今」をくれ、と空港で叫ぶのがOPの「僕らは今の中で」からずっと提言し続けてきた作品のパンチラインを回収する感じでよかったです。究極的に言えば、高校生であるときにやりたいことをやれる、というものに勝るものはないんだ、ここがμ'sのスタートラインなんだ、という制作側のメッセージ性も光る最終話でした。三話と最終話で「START:DASH」に違った意味を持たせているのが憎い演出でした。

 

で、サンシャインの三年生組に関してはそういうことも鑑みて果南さんが身を引いたわけですね。果南さんとダイヤさんは自分の想い(=やりたいことであり「今」)を殺して親友を送り出したわけです。今書いていて「思春期を殺した少年の翼」を思い出しました。

要するに果南さん=穂乃果で鞠莉さん=ことり、ダイヤさん=海未ちゃんの関係性で、果南さんは穂乃果ほど我を通せなかったわけです。鞠莉さん=ことりは本当にやりたい事=自分の気持ちがわかってたんですけど、留学してしまったわけですね。μ'sをモデルケースとして、逆パターンを検証している感じです。

 

「果南さんはずっとあなたの事を見てきたのですよ。あなたの立場も、あなたの気持ちも。そして、あなたの将来も、誰よりも考えている。」

 

この台詞が持つ意味は重いですよね。果南さんがあのまま闇落ちした穂乃果だとすると悲しすぎます。

で、ここからの展開が個人的に興味深いんですけど、無印では穂乃果が亜空間ダッシュでことりを追いかけたわけですが、サンシャインでは果南の気持ちに気付いて、想いを伝えに走るのは鞠莉なんですよ。雨の中走り出す鞠莉さんのシーンは素晴らしかったです。胸の鼓動が君と重なるかと思った。

 

「果南が私の事を想うように、私も果南の事考えているんだから!

 将来なんか今はどーーでもいいの!留学?まったく興味なかった。当たり前じゃない!だって…果南が歌えなかったんだよ…?放っておけるはずない!」

「私が…私が果南を想う気持ちを…甘く見ないで!」

 

このセリフは無印でもし穂乃果が追いかけなかったパターンのことりちゃんのセリフと考えるとかなり心に響くものがあります。

だから結局、二人とも言いたい事を云えずにここまで来てたわけなんです。納得が行ってなかったわけです。 

もう正直この二人の関係ズッブズブですやんってのもあるし、やっぱ決着つけるのはビンタなんですよねぇ。スクールアイドルは肉体言語で解決しろっていう不文律でもあるんですかねぇ。頬を差し出す果南さんからは拳で分かり合おう、みたいな少年ジャンプ的な友情を感じます。むしろスクールアイドルについて調べた果南さんがこの方法で行くしかない、と考えたんでしょうか。

 

ここで言いたいことは、無印でのパンチラインであった「やりたいことをやろう!相手の事情はどうあれ、自分のやりたいことをやり通そう!」ということでμ'sが一つの大団円を迎えたのは、「自分のやりたい事=相手のやりたい事」の図式が成り立っているからであって、だからこそ「今の中で」駆け抜けていったわけです。

みんながやりたいことの向きが合致してるのか、ということと、アイドル以外の道を歩む宿命にある友達の将来をどう考えるのか、ということ。この二点が判断の決め手となっているわけです。矢澤さんみたいに将来もアイドルをやりたそうな人は別としても、結局のところ、高校生の前に立ちはだかるのは進路の問題になってくるわけですね。ここでサンシャインのパンチラインAqoursのライブ前の掛け声がが生きてくるわけです。

 

「今、全力で輝こう!」

 

みんなで今この瞬間に輝こう、ってなわけですね。結局は、今しかできないことをして全力で輝いていこう!というわけです。君のこころは輝いているわけです。だから、文脈は無印の頃からぶれてないんです。

もちろんμ'sの物語がどれくらい世間に伝播しているのかはわからないのですが、μ'sという作中世界でも現実世界でも成功したスクールアイドルをモデルケースとして、色んなアイドルを描くうえで出てくる高校生特有の共通課題を解決する中でも「今やりたい事、今いる集団を大事にする」というのがこの大河ドラマの基本姿勢だということがこの二作で提示されたわけです。

  

そういう姿勢は打ち出しながらも、作中で折に触れて語られるように全国津々浦々にμ'sになれなかったグループが山ほどいるはずで、その一つ一つに物語があるわけです。熱闘甲子園的な、青春を懸けた子たちと、今日で解散、という瞬間と、それからの物語もあるわけです。

 

そういう意味でサンシャイン9話で部室のホワイトボードに書かれていたのは三年生の夢のあとだったわけですね。そしてそこに新しい文字を刻むのは新生Aqoursだったわけです。回想シーンで出てきた時に未完成だった歌詞が、和解を経て三人によって新たに書き加えられて完成していく過程も素晴らしかったですね。三人の体験をきちんとアウトプットした素晴らしい歌詞でした。

三人で果たせなかった夢を、後輩たちの加入で叶える、という落としどころとしても9話の物語は非常によかったです。

 

μ's二年生三人組もズブズブでしたが、この三年生組も結構なズブズブな関係ですからね。ある種、そんぐらいでないと生き残っていけないのがスクールアイドル業界なのでしょう。A-RISEとセイントスノーも深くは語られてないですがただならぬ雰囲気があります。

 

そして今回で誰よりも評価をストップ高に持って行ったのはダイヤさんですね。もうこれは誰もが認めるところかと思います。

果南と鞠莉が教室で揉めているときに横でオロオロしているところは普段の下級生への強気な態度とのギャップがあり、怒り狂う鞠莉さんをなだめたり、二人を一歩引いて見守っている感じ、自分の好きなものを見つめる顔がとてもよくって。善子に捕まったり、果南が過去に歌わなかった内情をひた隠してたのに結局バラしたり、一番最後に加入する時の笑顔といい、微笑む描写がだんだん増えていくのがとてもよかった。号泣する二人の影に隠れてますがダイヤさんが一番嬉しかったんじゃないかな。

 

果南について「鞠莉のことをずっと見てきた」と語ったダイヤさんだけど、ダイヤさんも二人の事をずっと見てきたんだよね。反目する二人の板挟みで辛い思いをしてきたんだよね。

「大好きな人のために、大好きなものを大嫌いって言ってたダイヤさんの気持ちを思うと胸が苦しい」と9話を見た直後に友人が語っておりましたが、この三人の幼馴染がお互いに対して抱いている愛情の強さは見ていて苦しくなるほどでした。

 

ダイヤさんが意図しない形とはいえAqoursという名前を残したことにも大きな意味があると思います。

卒業とか、解散とか、様々な形で名前を残せなかったグループは現実世界でも山ほどあるわけです。にこが穂乃果が抜けてもμ'sの名前を残そうとしたのと同じですよね。そういうグループお取り壊しで消えていったアイドルがたくさんいるなかで穏当な形で新メンバーを取り入れて、かつ過去に一度解散したグループの物語性も取り込めたことに他ならないわけですからね。

 

今回の話で三年生が「ライブで失敗した」という部分に関してはややインパクトが薄れた感はありますが、その分、幼少期のイベント群を補完できた所はあります。鞠莉の家のベランダに向かって懐中電灯の光を投げるシーン、そして、別れの瞬間にそれをなぞる果南。もうね、ほかのアニメだったらこのエピソードだけで一話作れますよ。ロリ鞠莉が転校してきたくだりとかで一話、結成で一話、すれ違いで一話、別れで一話いけますよ、これ。マリみてなら5巻は費やしてますよ。

果南さんがどんどん陰を帯びていく感じとか、ルビィと同じように「ピギィ」とか言ってた幼かったダイヤさんが老成してジト目になっていく過程とか、もうね、一話に詰め込みすぎなんですよ。むしろスピンオフで1クール使ってラブライブサンシャインゼロ、とかでやってもよかったレベルですよ。

第9話は情報量が多すぎて一回見ただけじゃ大抵の人間は色んな情報と色んな感情を整理しきれずにパニックに陥ったはずですが、その分、文脈を読め、という制作側からの薄高本ブーストも感じます。作中に語られていないことはお前らで想像していいんだぞ、みたいな。ありがてぇ。

 

友達の本当にやりたい事がわからずに一方通行な優しさを押し付けて、帰ってきた鞠莉にも冷たく当たってしまった果南。

二人の気持ちをわかっていながら、どちらにも手を差し伸べられなかったダイヤ。

そして、二人の本当の想いに気付けずにいた鞠莉。 

三人の優しさと、女子高生らしい幼さが綯交ぜになって心を打たれます。自分のやりたい事にことりを巻き込む、というのが穂乃果の周りを巻き込める強さであり、幼馴染に甘えてしまう弱さであったように、この三年生組も強さと弱さがあって本当に素晴らしいです。三人がそれぞれの幼かった罪を笑いながら、こんなこともあったね、と懐かしみながら「未熟DREAMER」をリライトして、歌っているとしたら涙を禁じ得ないですよ、私は。

 

あとまぁ避けて通れないのですが、挿入歌が素晴らしすぎた。歌も、衣装も、構成も、振り付けも文句の付けどころがなかった。三年生組の作画の気合の入り方が違った。

まず歌。これまでなかったような重厚なストリングスを効かせたサウンド、抑え気味の歌唱。先代Aqoursの制服モチーフ衣装から現在のAqoursへ変化する演出。「心迷子になる」「すれ違って」「気持ちが止まらなくて」のとこの三人固有の振り付け。

そしてまさかCメロをやると思ってなかった意外さに心を衝かれ、三年生が「やっと一つになれそうな僕たちだから」の後に腕を突き上げるシーン、何回見てもぐっときてしまいます。そのあと、下級生が前に出てきて、「本音ぶつけあうことからはじめよう」の流れが美しすぎて、自分の感情を全く制御できずもうどうにかなってしまいそうです。

 

先代三人の未完成の曲が後輩六人の力でようやく披露できて三人の時間が動き始めた、ということと 、後輩六人の作ったグループに最後のピースである三人が入った、という相互補完によってAqoursの「未熟DREAMER」が完成した、というのがこの回の意味なわけです。

 

見たのが日曜の夜だったんですが、毎日ライブのシーンを繰り返し見ています。中毒性が強いですね。この回は。

全体通してそうなんですが、新人の声優さんが多いですよね。でもそれが今回の泣きのシーンで、ある意味紋切り型に「上手い演技」でなくてよかったように思います。普段泣きそうもない二人が、普段言わないようなことを言う時のたどたどしさが出ているような気がして個人的にはいいなぁ、と思いました。

 

9話を見て以降、「青空Jumping Heart」のCメロの鞠莉さんパート聞くとちょっと涙が出そうになるので通勤中とかに聞けなくて困っています。ていうか挿入歌シングルの発売日遠すぎるよ!早くフルで聞かせてよ!

 

ここまで書いて6,000文字オーバー。特に無理して書いたつもりはないんですが、これもこの作品の持つ魅力で話が尽きることがないってことでしょうかね。

 

今日の夜はこれまでの流れから行けばコミカルな回になると思いますが、「先輩禁止!」とか「ワンダーゾーン」みたいな回だといいですね。

サンシャイン感想③(8話まで・三年生編)

まだ書きたい事があるので第9話見てないんですけど、第8話まででこんだけ色々思うことがあるのに、恐ろしいのがまだ三年生回があるだろうということ。

 

サンシャインは何がいいって「地元育ちの幼馴染」っていう設定に無理がないのがいいですよね。もちろん、高校生になってから出会った友人関係が尊くないか、といえばそんなことはないんですが、共同体における少年少女を描くうえで幼少期からの付き合い、という設定は効果的ですよね。

 

もちろん一年生とか二年生とかも幼馴染設定はあるんですけど、三年生だけにある悲愴感っていうか、バラバラになってしまったことが三人の生き方にまで影を落としている感じがもうたまらないっていうか。性別逆転させたら確実に濃厚なシリアス系BLになるだろうなっていう雰囲気です。

 

マリーさんは二年間姿くらましてるし、エリチに憧れたダイヤさんはそれをトレースするように生徒会長になってたり、果南さんに至っては休学までしてるし。共通の体験による喪失感が三人の今に暗い影を落としているわけですね。三人が心から笑っているところをOPとED以外で見たことがないわけですよ。公式絵とのギャップがすごいんですよ。

 

「本当・・ダイヤは好きなのね。果南が。」

「私は果南のストーカーだから」

 

この辺のマリーさんの台詞もさることながら、三人の間にある「お互いの事は誰よりもわかってますよ」みたいなただならぬ雰囲気が明らかに一年・二年と異質ですよね。時折回想で出てくる、あどけない少女たちが何があったらこんなことになるのか。

 

他の六人がスクールアイドルの物語でアマチュアな百合っぽさというかソフトにイチャイチャしてるのにあそこだけ本気なんですよ。他の子が別冊マーガレットで連載されてんのに、あそこだけスピンオフをCookieCocohanaで連載してるかのような重さがあるわけですよ。

 

見ていて感じるのはあの三人だけなんかFree!の世界観に生きてるわけですよ。

Free!にしても過去の共通の経験を経て留学行ってたりして戻ってきましたもんね。で、OPの出だしが「見たことない夢の軌道」ですよ。あの三人だけ岩美町時空なんですよ。海辺の高校生にはなんかトラウマを背負う宿命でもあるんでしょうかね。

 

で、あれだけ飄々としているマリーさんが、実は三人の関係に一番執着しているっていうのがいいですよね。

果南を取り合うダイヤさんとマリーさんとかいう対立構造が露見されて以降、薄高本業界に激震が走ったのは周知の事実ですが、黙して語らない果南さんの本音があふれた瞬間には私はどうなってしまうのか、今から怖い。

果南さんは「あきらめた」人間として、マリーさんからの誘いを断ったり、手を広げて抱きしめようとするマリーの横を素通りしたりしているのですが、たぶん千歌ちゃんに「君のこころは輝いてるかい?」をモチーフにした話で勧誘されるものと思います。果南さんが陥落すればほかの二人は断る理由ないでしょうし。

 

で、一方のダイヤさんもなぜか幼馴染のはずの二人をさん付けで呼んでたり、別の方法で廃校を救う、と言いつつ特に何かしてる描写はなかったり色々と掘れば面白いエピソードが出てくるんだろうな、という感じですね。

 

しかしここで唐突な過去回とかあったらやられちゃうなー。

まぁ要するに、あの三年生組は生徒会長と理事長が休学の生徒を奪い合ってキャットファイトを繰り広げる、とかいうズッブズブの百合の迷路なんですよ。ほんとラブライブ時空の学校運営はどうなってるんですか!

 

競技人口が増加して飛躍的にレベルが上がっているそうですが、果南さんが毎日ランニングしてたのもこれに備えてたんでしょうかね。三人がどんな曲をやってたのかわかりませんが、後半5話くらいですか。何をやってくるのか楽しみですね。こんだけ展開が遅いとなるともしかして変則でなく普通に2クールなのかな。

 

9話見てから今後の生死が決まってきます。怖いなぁ・・。

サンシャイン感想その②(第8話まで)

前回の記事であまりにもまじめにやりすぎたのでキャラを中心にサンシャインの話をします。

 

誤解を恐れずに言わせていただきたいのですが、サンシャインに最初はあんまり興味が持てなくて、アニメも見る気はなかったんです。

私にとってのラブライブはμ'sだし、μ'sだけでラブライブの世界観は美しく終われるんだからもういいじゃないかと。μ'sが終わったんならもう必要ないじゃないか、と。

アイマスの時にも思ったんですけど、無理してコンテンツを延命すると世界観なりなんなりが確実に歪むわけですよ。アイマスは「輝きの向こう側へ」で一つの区切りをつけたわけですが、ラブライブは劇場版で終わりじゃだめなのか、と。新しい物語を受け入れ難い気持ちがありました。

 

そういうスタンスで、スクフェスでサンシャインの子たちが出てきても、シングルが出てもあまり興味を持てずにいたんですが、こないだたまたまhuluに配信されているのを見つけて。

一応ラブライブを追ってきた身として、このコンテンツの行く末を見守る必要があるのかな、という気持ちに駆られて。見てみたんですね。 

 

そしたら、なんだよ、面白いじゃん、と。

 

舞台を東京から地方へ移した必要性がきちんと織り込まれてるじゃん、と。

まぁでも最初の辺りは、キャラ付けがアクが強くてちょっとなぁ…とか()無印の話をなぞりすぎてオリジナリティがなぁ…とか思ってたんですけど、だんだんとこの子たちかわいいじゃん。μ's以前、以後でスクールアイドルがどう変わってきたか、という事も踏まえて面白いじゃん。となっていったわけですよ。

一話ごとにどんどん楽しみになっていく自分がいたわけです。

 

最初にフックがあったなぁと思ったのが第三話のファーストライブ回でした。

前回の記事でも書きましたが、「大人の存在」を意図的に対立軸に持ってきていた無印との対比で、きちんと年長者へ協力を仰ぐ、というステップを踏ませたのが面白いと思ったんですね。

無印では話に関わってくるのはビッグバード理事長くらいで、近年揶揄される「大人不在の物語」を作ってきたけれども、地域社会を描く本作では一貫して親・姉妹・地域の人を出しています。地域社会では依然として「子供」とそれを見守る「大人」の構造が残っているということが描かれているのが、丁寧だなぁ、と思うんですね。

 

あと、千歌の姉ちゃんが自分の従業員を連れてこれる、というのも面白いなぁ、と思ったんですよね。休みの日に妹のライブあるから来てよ、で来てくれる限界が沼津市、人口十数万人の都市の外れのほう、くらいの規模だと思うんですよね。

田舎特有のことですが、全く別の場所で知り合った人が実は親兄弟とつながってる、なんてことはザラで、数人介せば誰とでも繋がれる、コミュニティの広がりの限界があるのです。だからこそ浦の星女学院のスクールアイドルを応援する、という土着性をバックグラウンドにしたスクールアイドルに説得力があると思うし、休日にやる事や行くところの選択肢の幅という観点においても暇だし行ってみようか、が成り立つと思うんです。

あれがμ’sだったらこうはいかない。アキバにいる人たちなんて東京出身の人すらそう多くないでしょうし、何人知り合いを辿ったところで誰も見つけることはできないでしょう。働く場所、通う学校、遊びに行く場所の選択肢が多すぎるんですね。

 

そして迎えたファーストライブ、「ダイスキだったらダイジョウブ!」で曜ちゃんから歌いだしっていうのが、シビレましたね。千歌ちゃんじゃなく、曜ちゃんからなんだ!っていう。

だからやっぱり陽ちゃんはμ’sでいうことりちゃんの役割なんだなって。歌いだしを担当する切り込み隊長は、やっぱり「主人公のために」という旗印を掲げれば何でもできる肝の据わった正妻の親友ポジなんだなって。東京回の時もかなり現実を見据えてましたよね。水泳部の活動はダイジョウブなんでしょうか。心配です。

 

で、4話の花丸ルビィ回で完全にやられちゃいました。

詳しいことは他で散々言われていることだと思うので割愛するのですが、友情の在り方を丹念に描く回でした。無印のりんぱな回で凛ちゃんがかよちんの背中を押したのと同じような筋ではあるのですが、

 

「これで丸の話はおしまい。夢は叶ったから、本の世界に戻るの」

 

というセリフの持つ意味は重いよ?これって、CCさくらの知世ちゃん並の愛を含んだ台詞ですよ。

「彼女の幸せを願って、自己実現させるためなら、自分のものじゃなくなってもOK」っていう覚悟を、誰にも言わず心に秘めて送り出したわけですから。まさに秘すれば花、花丸、なるほど、というわけですね。世阿弥もびっくりですよ。

 

花丸さんの、「一番の友達だからこそ背中を押そう、あの強そうな生徒会長へも話を通そう」っていう男気。穏やかだけど芯は強い、そんな花丸さんの魅力がとても詰まった回でしたね。

一方のルビィちゃんは天真爛漫で一生懸命な感じですが、花丸ちゃんが思っているのと同じくらいに、ルビィちゃんサイドも花丸ちゃんのことを想っている、という鉄壁のカップリングを披露。カプ厨は悶死しました。

 

そんで一年生のもう一人、ヨハネ回の第5話も素晴らしかったですね。

AURAや中二病でも恋がしたい!以降脚光を浴びている中二病属性(一昔前は邪気眼って言ってたりしましたっけね)と訣別しようとする善子ちゃん。

まぁあの素行を披露しててクラスでいじめられる気配すらない辺り、浦の星の方々はAURAと比べるまでもなく優しいんですが。

 

堕天しない?と堕天使Night?のダブルミーニングや天界からのドロップアウター!やらのフレーズも面白かったし、普通だった善子ちゃんが自分が平凡な存在だとわかって天使→堕天使へ自らを貶めて闇落ちした、という青少年にありがちな過剰なキャラ付けをしてきたこと、それとどう向き合っていくのか、という点でも興味深い回だった。

最後に、堕天使コスをした5人がやってきて、

 

善子「いいの!変な事いうわよ」

曜「いいよ。」

善子「時々儀式とかするかもよ!」

梨子「そのぐらい我慢するわ。」

善子「リトルデーモンになれとか言うかも!」

千歌「それは・・・でも嫌だったらやだっていう!」

 

と、二年生の先輩たちが畳みかけるようにヨハネを肯定する展開には心を打たれました。夕焼けと夕闇の対比が無印の頃にもありましたが、視覚面で非常に効果的です。

ヨハネちゃんに必要だったのは、自分と、自分のやりたい事を世間から肯定してもらうことだったんです。

結果的にダイヤさんに大目玉を食らい、順位も降下して、世間から評価はされなかったのですけれど、Aqoursの5人だけはあなたの事、あなたのやりたい事を肯定するよ、という姿勢。素晴らしいですよね。

先ほどの台詞の後に黒い羽を手渡すくだりはまさに無印二期のEDですよね。無印劇場版の最後にも羽のシーンはありましたが、μ'sからAqoursに渡されたバトンのようにも思います。

 

次に第6話、PV回は地域創生的な意味合いの強い回でしたね。

海開きをするときに提灯を持ってゴミ拾いをする地元の人たちに着想を得た「夢で夜空を照らしたい」には六人の住む共同体の伝統が色濃く反映されていました。提灯が空に飛んでいき、Aqoursの文字を出来るのはまんま「もぎゅっとLoveで接近中」のPVのオマージュですよね。

出だしがルビィ→花丸→善子で繋がれていくのも4話5話でやってきた一年生の話をなぞっていく感じでいいですよね。この回はキャラがどうとかでなく、ストーリーとしてとても好きです。飛んでった提灯どうすんだよ、とか思いましたが。

 

そのあとは第7話~第8話の二話を使って東京回でしたが、ここでは東京との格差を見せつけます。

まぁこの辺はμ'sがファーストライブで挫折したのを、中盤に持ち越して大都会の規模とかレベルとか人口とかと対比して竦ませる、という形で都会に出てきた田舎者の心情をトレースしている感じでいいですね。

私も田舎から初めて都会に出たときに、自分の住んでいた町がいかにちっぽけだったかと思い知ったものです。地元の一年に一回のお祭りくらいの人が常にいるんですからね。

 

結成して多く見積もっても数か月のグループを一流どころの中に呼ぶ委員会も、マジギレするセイントスノーもどうかと思うんですけど、この回の主旨は競技スクールアイドルのレベルの質がいかに向上したかを説明することにあったのです。μ's・A-RISE時代の功罪ですよね。中途半端なやつらは来るな、バカにしてんのか、みたいな空気になってるわけですもんね。

 

セイントスノーのゴリッゴリのミュージックに「弱さ」を嫌う歌詞、「セルフコントロール」というタイトルからも、この世界でのアイドル像はアライズ系のカッコイイ系が主流のようです。もちろん現実で男性をメイン層にしなければならない主人公ユニットのライバルですので対照的な感じだと必然そうなってくるんでしょうけどね。

 

ただ、前作からも折に触れて出てくるように、ラブライブ世界では「アイドル」のターゲット層は女性、とりわけ女子学生であり、我々の世界のアイドルとは少しニュアンスが違っているようにも感じられます。女子の憧れがスクールアイドルであって、オタクの慰み者ではないんですよね。

 

セイントスノーの十傑集みたいな体技とか見てるとスクールアイドルの世界のプロアイドルはどんな人たちなんだろう…と某プリンスオブテニスのようないらぬ詮索をしてしまうんですが、一位はどんな方々なんでしょうね。ていうかセイントスノーのせいらとりあさんは矢澤さんの妹にしか見えなかったんですが今後関わってくるんでしょうかね。

 

8話で東京から敗残兵のごとく帰ってきて落ち込む6人に優しいダイヤさんとか、千歌ちゃんがくやしい、と嗚咽を漏らすシーンは泣けますよねぇ。

あと、得票が「ゼロ」であったことを強調しておいて、

 

「だから私続けるよ、スクールアイドル。だってまだゼロなんだもん!」

 

というセリフで(現実世界の)デビューシングルのカップリングである「Step! Zero to ONE」をなぞってくるのも憎いですよね。

あと、

 

「みんな千歌ちゃんのためにスクールアイドルやってるわけじゃないわよ。自分で決めたの!」

 

という台詞もいいですね。

μ'sの物語で穂乃果が本音を言えずに「最低です!」に繋がっていたことを考えると、今作では二年生組が比較的早い段階から本音でぶつかり合う描写があるのも対照的です。

 

長くなったので今日はこの辺で。第9話見なきゃ。

ラブライブサンシャイン感想(第8話まで)

とうとうラブライブサンシャインが始まりました。現在第8話。

Twitterで感想を書こうかと思ったのですが ネタバレは本意でないし、

分量が増えそうなのでブログをはじめました。

 

 サンシャインを見ていて初めに思ったことが、あっ、このラブライブというコンテンツは戦隊もののように、物語を進めるうえでスクールアイドルに必要な役割を受け継がせるシステムで進めていくんだ、という事。つまり、ある種のステレオタイプを作っていくことで「この子はこの役割のキャラね」ということを視聴者にわかりやすく提示するんだなっていうこと。

 

この考え方自体がある種、舞台的というか、狂言回しを含めて必須の役割がいくつか存在していて、誰が特定の役割を演じるのか、ということによって同じような境遇、同じようなキャラの子の色を出していくんだな、と感じた。もちろん公野櫻子先生が作るキャラが大体似通ってる、というのは禁句で。

 

穂乃果の役割を担う千歌ちゃんをはじめ、ダイヤさんがエリチ、ルビィがかよちんに憧れていて、花丸が凛ちゃんをしきりに意識している設定なんかも、このラブライブという大河ドラマにおいて物語や演者側の必要性に迫られての世代交代以上に、重要な意味を持っているように思う。

 

たとえば、ダイヤ会長が主人公率いるAqoursと過去の経験ゆえに対立し、スクールアイドルとは別の方法で廃校を救おうとする、序盤の敵役イメージなのは無印におけるエリチの物語の焼き直しでは全くないし、全国に数多いるμ'sになれなかったグループのその後を描く、という物語性はラブライブの世界観を支える太い骨子の一つになっている。

 

 

そして、サンシャインという新しい物語を語るうえで力強い骨組みとして生きているのは「地方と都会の格差」ですね。ダイヤ会長の率いたスクールアイドルが廃校を救おうとして挫折した、という経緯を含めて、一貫して描かれているのは地方と都会の格差に尽きます。この点については非常に丹念だと思う。

 

静岡の沼津の近くの漁港の町。網元やホテルをやってる地主が力を持っているというのがいい。仕事柄、地方の卸売市場を知る機会が時々ありますが、地方の衰退は恐ろしいものがあります。

昔は江戸時代の株仲間のように、商売したければ地元の漁協や農協などに出資して地域の利権団体に参加していないと商品の取扱いすらままならなかったわけですが、今は市場の自由化や過疎化によって後継者難で地方市場は倒産してしまったり、どこかと統合をしなければ生き残れなくなってきています。まだまだ地方が元気な所もあるにはありますが、なかなかに限られています。流通という世界では思っている以上に淘汰が進んでいるのです。そういった雰囲気が、漁港の町である沼津市からも感じられます。

 

音乃木坂に通っていた少女たちは基本は徒歩圏内の地元の子たちで、遅くまで残っても歩いて帰れる距離に家があって、矢澤さんは複雑な感じだったので例外かもしれませんが、基本的には中流~そこそこ裕福な持ち家の家庭で、一等地の私立と思われる女子高に通っているという設定でした。

これも首都圏に縁がないとわからないことですが、23区内でも千代田区というのは地価がべらぼうに高い地域で、そこで家を持っているor借りているというのはそこそこにアッパー層なわけですね。だからみんな満員電車に乗ってでも埼玉とか千葉に住むわけです。

 

つまり、ここで言いたいのは、音乃木坂高校が一極集中を続ける都会の一等地にあって、入学者が減って廃校の危機を迎えたのと、浦の星女学院が衰退していく地方都市の過疎によって入学者数が減っているのは同じ廃校の危機でも根本にある問題が異なっているということで、つまり、解決しなければならない問題の性質が全く違うわけですよ。ただの女子高の統廃合というミクロな視点だけでは語れない問題があるわけです。

 

そういったわけで、地方で生まれ、生きていく、ということはこれからの時代、難しい問題がたくさん待っているわけです。「地方消滅」というタイトルの新書がヒットしましたが、政令指定都市以下の規模の都市では否応なくこの問題と向き合わなければならないわけです。

 

もう一つの切り口として、少女たちの精神の乖離もポイントです。

ネットが極限まで広く伝播し、遍くユビキタス社会の恩恵に授かっている現代において、地方の少女たちは、昔と違ってテレビで放映がなくてもネットで好きなものを見れるし、繁華街がなくたってアマゾンがあれば買い物にも不自由はしないわけです。

しかし、実は人口過密の都会と比べて、最寄りの駅ですら夜は誰もいないような自分の住んでいる町との格差に、心底絶望している実情があるわけですね。

住んでみれば都会が楽しいことばかりじゃないことは知らないけど、世の中にあるキラキラした文化や流行が、自分の住む町にあるものではないことは確実に知っているわけです。

 

これはクドカンが2012年に手がけた朝ドラ「あまちゃん」でもかなりフィーチャーされた部分で、宇野常寛氏が著書のあまちゃん評において触れたように「内面のイマジナリーな過剰さと街のスカスカ感の落差が地方少女の独特の感性を作り上げて」いるのです。

 

流行りの服を買ったって着ていく場所も近くにないし、映画を見に行くにも電車で一時間かけて主要都市に行かなければならない自分の町を「何もない」と言い切れるほどに絶望しているのですね。そして自分の町より遥かに大きい中核市クラスですら都会と比べたらちっぽけで、それは第8話の

 

「1300万人も人が住んでいるのよ…(中略)、やっぱり違うのかな…そういうところで暮らしていると…」

 

というセリフからも読み取れる。

 

ダイヤさんを初めとして、地元の人たちがみんな口を揃えて「田舎じゃスクールアイドルなんて無理だよ」と言うのもこの問題を強調しているわけで、都会で流行ったことが数巡遅れて地方にやってくるけれども、東京や大阪で出来ることが同じように田舎で出来るわけではない、ということをみんなわかっているんですね。

 

流行りを理解している人の数も、熱量も周囲からの理解のされ方も違う。憧れはするし、やれるならやってみたいけども、それが地元で実現する可能性が低いということは嫌というほどわかっているわけです。

 

ちょうど無印の劇場版でアキバが「なんでも受け入れてくれる場所」と紹介されたのとは対照的に、新しいものを受け入れること、何かに夢中になることをどこか恐れている雰囲気が、田舎にはあります。だから、都会で流行っていることを安易に田舎へ持ち込むことの無謀さを地方出身者はわかっているんですね。

沼津と同じくらいの規模の町で育った私には諫める周囲の気持ちもわかるし、でも打ち込めることが見つからなくて何かに夢中になりたい千歌の気持ちもわかる。

 

下妻物語」とかでもあった話ですが、結局、東京でならリトルボーピープの服を着ていても「まぁこんな人もいるよね」程度で済むし辛くなっても他に受け皿、要するに同好の士も見つけられるけど、田舎なら迫害の対象になってしまう。

悪目立ちすることが好ましくないのはヨハネ回でも触れられていますが、自己実現の形を誤れば、学生生活を棒に振ってしまう可能性もあるのです。コミュニティに縛られるのは田舎の持つ特性の一つですね。

 

 

「何かに夢中になりたくて。何かに全力になりたくて。脇目も振らずに走りたくて。でも、何をやっていいのかわからなくて。(第1話アバン)」

 

千歌の冒頭の台詞は地方の若者を包む無気力感、憂鬱を端的に表しています。

これは都会で暮らす人間が感じている「周りにはたくさんの物があって、物質的に恵まれているからこそ何に手を出していいかわからない」ではなく、「周りには何もないし、限られた選択肢の中に夢中になれるものがない」状況が、この作品のスタートラインにあることを提示しているのですね。穂乃果と千歌では生まれから住環境から前提条件が全く違っているのです。

だから、サンシャインは見かけ上は無印のストーリーラインを丁寧になぞっているようでいて、実は全く違った文脈が横たわっているのである。

 

第6話で廃校を阻止するために自分たちのPVを作ることになったAqoursの面々。

紆余曲折して、最終的に風景や観光名所を映す(=旧来の観光産業的な売り出し方)のではなくて、人の温かさや伝統、土着的な行事とスクールアイドル文化を融合させた映像を作り上げます。これは「ここに来ればこういう人たちと会える、触れ合える」という売り出し方を選択したということなのです。

だからこの回は、十代の少女たちが打ち出したの生き残りの戦略が、土地自体のアピールではなく、そこで暮らす人々や固有の文化こそがコミュニティの基盤なんだ、というメッセージ性の強い回だったと思うのです。その際の千歌のモノローグがまた心を打たれる。

 

 

「私心の中でずっと叫んでた。助けてって。ここには何もないって。でも違ったんだ。追いかけてみせるよ。ずっとずっと。この場所から始めるんだ!(第6話)」

 

 

これはラブライブサンシャインという作品における強烈なパンチラインだと思うのですね。

つまり、千歌ちゃんに仮託した地方の少女たちが、一度は自分の住む町に絶望して、そして受け容れる再生の物語を第6話まで使って描いていると思うのです。

そして第7話以降で東京との格差を体感し、最終的に共生するのか代理戦争するのかわからないですが、ラブライブサンシャインは「あまちゃん」と同じく地方再生の物語となっていくと思う。

無印が割と少女たちの部活動という狭く閉じた輪の中で理事長以外の大人たちの介入を得ずに進んでいったのと比べて、サンシャインでは親、兄弟、近所の人たちといったコミュニティのつながりがより色濃く描かれているのも無関係でないと思う。

 

自分たちの住む町を受け入れ、立ち上がったAqoursが東京との格差、規模の違い、全国における自分たちの立ち位置を目の当たりにする様子が「TOKYO」「くやしくないの?」で描かれていますが、第9話以降、どうやって相克していくのか。

 

私がそうであるように、地方にある倦怠感や停滞感を肌身で感じ、街のピークが高度経済成長以前でとっくに終わった第一次、第二次産業の街から都会に出てきた人たちにとって無印とサンシャインは心に刺さる作品になっていると思います。 

三年生も仲間に入ってくることですし、これからの物語に期待ですね。