目を見ればわかるなんて

27歳社会人のブログ。

サンシャイン感想③(8話まで・三年生編)

まだ書きたい事があるので第9話見てないんですけど、第8話まででこんだけ色々思うことがあるのに、恐ろしいのがまだ三年生回があるだろうということ。

 

サンシャインは何がいいって「地元育ちの幼馴染」っていう設定に無理がないのがいいですよね。もちろん、高校生になってから出会った友人関係が尊くないか、といえばそんなことはないんですが、共同体における少年少女を描くうえで幼少期からの付き合い、という設定は効果的ですよね。

 

もちろん一年生とか二年生とかも幼馴染設定はあるんですけど、三年生だけにある悲愴感っていうか、バラバラになってしまったことが三人の生き方にまで影を落としている感じがもうたまらないっていうか。性別逆転させたら確実に濃厚なシリアス系BLになるだろうなっていう雰囲気です。

 

マリーさんは二年間姿くらましてるし、エリチに憧れたダイヤさんはそれをトレースするように生徒会長になってたり、果南さんに至っては休学までしてるし。共通の体験による喪失感が三人の今に暗い影を落としているわけですね。三人が心から笑っているところをOPとED以外で見たことがないわけですよ。公式絵とのギャップがすごいんですよ。

 

「本当・・ダイヤは好きなのね。果南が。」

「私は果南のストーカーだから」

 

この辺のマリーさんの台詞もさることながら、三人の間にある「お互いの事は誰よりもわかってますよ」みたいなただならぬ雰囲気が明らかに一年・二年と異質ですよね。時折回想で出てくる、あどけない少女たちが何があったらこんなことになるのか。

 

他の六人がスクールアイドルの物語でアマチュアな百合っぽさというかソフトにイチャイチャしてるのにあそこだけ本気なんですよ。他の子が別冊マーガレットで連載されてんのに、あそこだけスピンオフをCookieCocohanaで連載してるかのような重さがあるわけですよ。

 

見ていて感じるのはあの三人だけなんかFree!の世界観に生きてるわけですよ。

Free!にしても過去の共通の経験を経て留学行ってたりして戻ってきましたもんね。で、OPの出だしが「見たことない夢の軌道」ですよ。あの三人だけ岩美町時空なんですよ。海辺の高校生にはなんかトラウマを背負う宿命でもあるんでしょうかね。

 

で、あれだけ飄々としているマリーさんが、実は三人の関係に一番執着しているっていうのがいいですよね。

果南を取り合うダイヤさんとマリーさんとかいう対立構造が露見されて以降、薄高本業界に激震が走ったのは周知の事実ですが、黙して語らない果南さんの本音があふれた瞬間には私はどうなってしまうのか、今から怖い。

果南さんは「あきらめた」人間として、マリーさんからの誘いを断ったり、手を広げて抱きしめようとするマリーの横を素通りしたりしているのですが、たぶん千歌ちゃんに「君のこころは輝いてるかい?」をモチーフにした話で勧誘されるものと思います。果南さんが陥落すればほかの二人は断る理由ないでしょうし。

 

で、一方のダイヤさんもなぜか幼馴染のはずの二人をさん付けで呼んでたり、別の方法で廃校を救う、と言いつつ特に何かしてる描写はなかったり色々と掘れば面白いエピソードが出てくるんだろうな、という感じですね。

 

しかしここで唐突な過去回とかあったらやられちゃうなー。

まぁ要するに、あの三年生組は生徒会長と理事長が休学の生徒を奪い合ってキャットファイトを繰り広げる、とかいうズッブズブの百合の迷路なんですよ。ほんとラブライブ時空の学校運営はどうなってるんですか!

 

競技人口が増加して飛躍的にレベルが上がっているそうですが、果南さんが毎日ランニングしてたのもこれに備えてたんでしょうかね。三人がどんな曲をやってたのかわかりませんが、後半5話くらいですか。何をやってくるのか楽しみですね。こんだけ展開が遅いとなるともしかして変則でなく普通に2クールなのかな。

 

9話見てから今後の生死が決まってきます。怖いなぁ・・。

サンシャイン感想その②(第8話まで)

前回の記事であまりにもまじめにやりすぎたのでキャラを中心にサンシャインの話をします。

 

誤解を恐れずに言わせていただきたいのですが、サンシャインに最初はあんまり興味が持てなくて、アニメも見る気はなかったんです。

私にとってのラブライブはμ'sだし、μ'sだけでラブライブの世界観は美しく終われるんだからもういいじゃないかと。μ'sが終わったんならもう必要ないじゃないか、と。

アイマスの時にも思ったんですけど、無理してコンテンツを延命すると世界観なりなんなりが確実に歪むわけですよ。アイマスは「輝きの向こう側へ」で一つの区切りをつけたわけですが、ラブライブは劇場版で終わりじゃだめなのか、と。新しい物語を受け入れ難い気持ちがありました。

 

そういうスタンスで、スクフェスでサンシャインの子たちが出てきても、シングルが出てもあまり興味を持てずにいたんですが、こないだたまたまhuluに配信されているのを見つけて。

一応ラブライブを追ってきた身として、このコンテンツの行く末を見守る必要があるのかな、という気持ちに駆られて。見てみたんですね。 

 

そしたら、なんだよ、面白いじゃん、と。

 

舞台を東京から地方へ移した必要性がきちんと織り込まれてるじゃん、と。

まぁでも最初の辺りは、キャラ付けがアクが強くてちょっとなぁ…とか()無印の話をなぞりすぎてオリジナリティがなぁ…とか思ってたんですけど、だんだんとこの子たちかわいいじゃん。μ's以前、以後でスクールアイドルがどう変わってきたか、という事も踏まえて面白いじゃん。となっていったわけですよ。

一話ごとにどんどん楽しみになっていく自分がいたわけです。

 

最初にフックがあったなぁと思ったのが第三話のファーストライブ回でした。

前回の記事でも書きましたが、「大人の存在」を意図的に対立軸に持ってきていた無印との対比で、きちんと年長者へ協力を仰ぐ、というステップを踏ませたのが面白いと思ったんですね。

無印では話に関わってくるのはビッグバード理事長くらいで、近年揶揄される「大人不在の物語」を作ってきたけれども、地域社会を描く本作では一貫して親・姉妹・地域の人を出しています。地域社会では依然として「子供」とそれを見守る「大人」の構造が残っているということが描かれているのが、丁寧だなぁ、と思うんですね。

 

あと、千歌の姉ちゃんが自分の従業員を連れてこれる、というのも面白いなぁ、と思ったんですよね。休みの日に妹のライブあるから来てよ、で来てくれる限界が沼津市、人口十数万人の都市の外れのほう、くらいの規模だと思うんですよね。

田舎特有のことですが、全く別の場所で知り合った人が実は親兄弟とつながってる、なんてことはザラで、数人介せば誰とでも繋がれる、コミュニティの広がりの限界があるのです。だからこそ浦の星女学院のスクールアイドルを応援する、という土着性をバックグラウンドにしたスクールアイドルに説得力があると思うし、休日にやる事や行くところの選択肢の幅という観点においても暇だし行ってみようか、が成り立つと思うんです。

あれがμ’sだったらこうはいかない。アキバにいる人たちなんて東京出身の人すらそう多くないでしょうし、何人知り合いを辿ったところで誰も見つけることはできないでしょう。働く場所、通う学校、遊びに行く場所の選択肢が多すぎるんですね。

 

そして迎えたファーストライブ、「ダイスキだったらダイジョウブ!」で曜ちゃんから歌いだしっていうのが、シビレましたね。千歌ちゃんじゃなく、曜ちゃんからなんだ!っていう。

だからやっぱり陽ちゃんはμ’sでいうことりちゃんの役割なんだなって。歌いだしを担当する切り込み隊長は、やっぱり「主人公のために」という旗印を掲げれば何でもできる肝の据わった正妻の親友ポジなんだなって。東京回の時もかなり現実を見据えてましたよね。水泳部の活動はダイジョウブなんでしょうか。心配です。

 

で、4話の花丸ルビィ回で完全にやられちゃいました。

詳しいことは他で散々言われていることだと思うので割愛するのですが、友情の在り方を丹念に描く回でした。無印のりんぱな回で凛ちゃんがかよちんの背中を押したのと同じような筋ではあるのですが、

 

「これで丸の話はおしまい。夢は叶ったから、本の世界に戻るの」

 

というセリフの持つ意味は重いよ?これって、CCさくらの知世ちゃん並の愛を含んだ台詞ですよ。

「彼女の幸せを願って、自己実現させるためなら、自分のものじゃなくなってもOK」っていう覚悟を、誰にも言わず心に秘めて送り出したわけですから。まさに秘すれば花、花丸、なるほど、というわけですね。世阿弥もびっくりですよ。

 

花丸さんの、「一番の友達だからこそ背中を押そう、あの強そうな生徒会長へも話を通そう」っていう男気。穏やかだけど芯は強い、そんな花丸さんの魅力がとても詰まった回でしたね。

一方のルビィちゃんは天真爛漫で一生懸命な感じですが、花丸ちゃんが思っているのと同じくらいに、ルビィちゃんサイドも花丸ちゃんのことを想っている、という鉄壁のカップリングを披露。カプ厨は悶死しました。

 

そんで一年生のもう一人、ヨハネ回の第5話も素晴らしかったですね。

AURAや中二病でも恋がしたい!以降脚光を浴びている中二病属性(一昔前は邪気眼って言ってたりしましたっけね)と訣別しようとする善子ちゃん。

まぁあの素行を披露しててクラスでいじめられる気配すらない辺り、浦の星の方々はAURAと比べるまでもなく優しいんですが。

 

堕天しない?と堕天使Night?のダブルミーニングや天界からのドロップアウター!やらのフレーズも面白かったし、普通だった善子ちゃんが自分が平凡な存在だとわかって天使→堕天使へ自らを貶めて闇落ちした、という青少年にありがちな過剰なキャラ付けをしてきたこと、それとどう向き合っていくのか、という点でも興味深い回だった。

最後に、堕天使コスをした5人がやってきて、

 

善子「いいの!変な事いうわよ」

曜「いいよ。」

善子「時々儀式とかするかもよ!」

梨子「そのぐらい我慢するわ。」

善子「リトルデーモンになれとか言うかも!」

千歌「それは・・・でも嫌だったらやだっていう!」

 

と、二年生の先輩たちが畳みかけるようにヨハネを肯定する展開には心を打たれました。夕焼けと夕闇の対比が無印の頃にもありましたが、視覚面で非常に効果的です。

ヨハネちゃんに必要だったのは、自分と、自分のやりたい事を世間から肯定してもらうことだったんです。

結果的にダイヤさんに大目玉を食らい、順位も降下して、世間から評価はされなかったのですけれど、Aqoursの5人だけはあなたの事、あなたのやりたい事を肯定するよ、という姿勢。素晴らしいですよね。

先ほどの台詞の後に黒い羽を手渡すくだりはまさに無印二期のEDですよね。無印劇場版の最後にも羽のシーンはありましたが、μ'sからAqoursに渡されたバトンのようにも思います。

 

次に第6話、PV回は地域創生的な意味合いの強い回でしたね。

海開きをするときに提灯を持ってゴミ拾いをする地元の人たちに着想を得た「夢で夜空を照らしたい」には六人の住む共同体の伝統が色濃く反映されていました。提灯が空に飛んでいき、Aqoursの文字を出来るのはまんま「もぎゅっとLoveで接近中」のPVのオマージュですよね。

出だしがルビィ→花丸→善子で繋がれていくのも4話5話でやってきた一年生の話をなぞっていく感じでいいですよね。この回はキャラがどうとかでなく、ストーリーとしてとても好きです。飛んでった提灯どうすんだよ、とか思いましたが。

 

そのあとは第7話~第8話の二話を使って東京回でしたが、ここでは東京との格差を見せつけます。

まぁこの辺はμ'sがファーストライブで挫折したのを、中盤に持ち越して大都会の規模とかレベルとか人口とかと対比して竦ませる、という形で都会に出てきた田舎者の心情をトレースしている感じでいいですね。

私も田舎から初めて都会に出たときに、自分の住んでいた町がいかにちっぽけだったかと思い知ったものです。地元の一年に一回のお祭りくらいの人が常にいるんですからね。

 

結成して多く見積もっても数か月のグループを一流どころの中に呼ぶ委員会も、マジギレするセイントスノーもどうかと思うんですけど、この回の主旨は競技スクールアイドルのレベルの質がいかに向上したかを説明することにあったのです。μ's・A-RISE時代の功罪ですよね。中途半端なやつらは来るな、バカにしてんのか、みたいな空気になってるわけですもんね。

 

セイントスノーのゴリッゴリのミュージックに「弱さ」を嫌う歌詞、「セルフコントロール」というタイトルからも、この世界でのアイドル像はアライズ系のカッコイイ系が主流のようです。もちろん現実で男性をメイン層にしなければならない主人公ユニットのライバルですので対照的な感じだと必然そうなってくるんでしょうけどね。

 

ただ、前作からも折に触れて出てくるように、ラブライブ世界では「アイドル」のターゲット層は女性、とりわけ女子学生であり、我々の世界のアイドルとは少しニュアンスが違っているようにも感じられます。女子の憧れがスクールアイドルであって、オタクの慰み者ではないんですよね。

 

セイントスノーの十傑集みたいな体技とか見てるとスクールアイドルの世界のプロアイドルはどんな人たちなんだろう…と某プリンスオブテニスのようないらぬ詮索をしてしまうんですが、一位はどんな方々なんでしょうね。ていうかセイントスノーのせいらとりあさんは矢澤さんの妹にしか見えなかったんですが今後関わってくるんでしょうかね。

 

8話で東京から敗残兵のごとく帰ってきて落ち込む6人に優しいダイヤさんとか、千歌ちゃんがくやしい、と嗚咽を漏らすシーンは泣けますよねぇ。

あと、得票が「ゼロ」であったことを強調しておいて、

 

「だから私続けるよ、スクールアイドル。だってまだゼロなんだもん!」

 

というセリフで(現実世界の)デビューシングルのカップリングである「Step! Zero to ONE」をなぞってくるのも憎いですよね。

あと、

 

「みんな千歌ちゃんのためにスクールアイドルやってるわけじゃないわよ。自分で決めたの!」

 

という台詞もいいですね。

μ'sの物語で穂乃果が本音を言えずに「最低です!」に繋がっていたことを考えると、今作では二年生組が比較的早い段階から本音でぶつかり合う描写があるのも対照的です。

 

長くなったので今日はこの辺で。第9話見なきゃ。

ラブライブサンシャイン感想(第8話まで)

とうとうラブライブサンシャインが始まりました。現在第8話。

Twitterで感想を書こうかと思ったのですが ネタバレは本意でないし、

分量が増えそうなのでブログをはじめました。

 

 サンシャインを見ていて初めに思ったことが、あっ、このラブライブというコンテンツは戦隊もののように、物語を進めるうえでスクールアイドルに必要な役割を受け継がせるシステムで進めていくんだ、という事。つまり、ある種のステレオタイプを作っていくことで「この子はこの役割のキャラね」ということを視聴者にわかりやすく提示するんだなっていうこと。

 

この考え方自体がある種、舞台的というか、狂言回しを含めて必須の役割がいくつか存在していて、誰が特定の役割を演じるのか、ということによって同じような境遇、同じようなキャラの子の色を出していくんだな、と感じた。もちろん公野櫻子先生が作るキャラが大体似通ってる、というのは禁句で。

 

穂乃果の役割を担う千歌ちゃんをはじめ、ダイヤさんがエリチ、ルビィがかよちんに憧れていて、花丸が凛ちゃんをしきりに意識している設定なんかも、このラブライブという大河ドラマにおいて物語や演者側の必要性に迫られての世代交代以上に、重要な意味を持っているように思う。

 

たとえば、ダイヤ会長が主人公率いるAqoursと過去の経験ゆえに対立し、スクールアイドルとは別の方法で廃校を救おうとする、序盤の敵役イメージなのは無印におけるエリチの物語の焼き直しでは全くないし、全国に数多いるμ'sになれなかったグループのその後を描く、という物語性はラブライブの世界観を支える太い骨子の一つになっている。

 

 

そして、サンシャインという新しい物語を語るうえで力強い骨組みとして生きているのは「地方と都会の格差」ですね。ダイヤ会長の率いたスクールアイドルが廃校を救おうとして挫折した、という経緯を含めて、一貫して描かれているのは地方と都会の格差に尽きます。この点については非常に丹念だと思う。

 

静岡の沼津の近くの漁港の町。網元やホテルをやってる地主が力を持っているというのがいい。仕事柄、地方の卸売市場を知る機会が時々ありますが、地方の衰退は恐ろしいものがあります。

昔は江戸時代の株仲間のように、商売したければ地元の漁協や農協などに出資して地域の利権団体に参加していないと商品の取扱いすらままならなかったわけですが、今は市場の自由化や過疎化によって後継者難で地方市場は倒産してしまったり、どこかと統合をしなければ生き残れなくなってきています。まだまだ地方が元気な所もあるにはありますが、なかなかに限られています。流通という世界では思っている以上に淘汰が進んでいるのです。そういった雰囲気が、漁港の町である沼津市からも感じられます。

 

音乃木坂に通っていた少女たちは基本は徒歩圏内の地元の子たちで、遅くまで残っても歩いて帰れる距離に家があって、矢澤さんは複雑な感じだったので例外かもしれませんが、基本的には中流~そこそこ裕福な持ち家の家庭で、一等地の私立と思われる女子高に通っているという設定でした。

これも首都圏に縁がないとわからないことですが、23区内でも千代田区というのは地価がべらぼうに高い地域で、そこで家を持っているor借りているというのはそこそこにアッパー層なわけですね。だからみんな満員電車に乗ってでも埼玉とか千葉に住むわけです。

 

つまり、ここで言いたいのは、音乃木坂高校が一極集中を続ける都会の一等地にあって、入学者が減って廃校の危機を迎えたのと、浦の星女学院が衰退していく地方都市の過疎によって入学者数が減っているのは同じ廃校の危機でも根本にある問題が異なっているということで、つまり、解決しなければならない問題の性質が全く違うわけですよ。ただの女子高の統廃合というミクロな視点だけでは語れない問題があるわけです。

 

そういったわけで、地方で生まれ、生きていく、ということはこれからの時代、難しい問題がたくさん待っているわけです。「地方消滅」というタイトルの新書がヒットしましたが、政令指定都市以下の規模の都市では否応なくこの問題と向き合わなければならないわけです。

 

もう一つの切り口として、少女たちの精神の乖離もポイントです。

ネットが極限まで広く伝播し、遍くユビキタス社会の恩恵に授かっている現代において、地方の少女たちは、昔と違ってテレビで放映がなくてもネットで好きなものを見れるし、繁華街がなくたってアマゾンがあれば買い物にも不自由はしないわけです。

しかし、実は人口過密の都会と比べて、最寄りの駅ですら夜は誰もいないような自分の住んでいる町との格差に、心底絶望している実情があるわけですね。

住んでみれば都会が楽しいことばかりじゃないことは知らないけど、世の中にあるキラキラした文化や流行が、自分の住む町にあるものではないことは確実に知っているわけです。

 

これはクドカンが2012年に手がけた朝ドラ「あまちゃん」でもかなりフィーチャーされた部分で、宇野常寛氏が著書のあまちゃん評において触れたように「内面のイマジナリーな過剰さと街のスカスカ感の落差が地方少女の独特の感性を作り上げて」いるのです。

 

流行りの服を買ったって着ていく場所も近くにないし、映画を見に行くにも電車で一時間かけて主要都市に行かなければならない自分の町を「何もない」と言い切れるほどに絶望しているのですね。そして自分の町より遥かに大きい中核市クラスですら都会と比べたらちっぽけで、それは第8話の

 

「1300万人も人が住んでいるのよ…(中略)、やっぱり違うのかな…そういうところで暮らしていると…」

 

というセリフからも読み取れる。

 

ダイヤさんを初めとして、地元の人たちがみんな口を揃えて「田舎じゃスクールアイドルなんて無理だよ」と言うのもこの問題を強調しているわけで、都会で流行ったことが数巡遅れて地方にやってくるけれども、東京や大阪で出来ることが同じように田舎で出来るわけではない、ということをみんなわかっているんですね。

 

流行りを理解している人の数も、熱量も周囲からの理解のされ方も違う。憧れはするし、やれるならやってみたいけども、それが地元で実現する可能性が低いということは嫌というほどわかっているわけです。

 

ちょうど無印の劇場版でアキバが「なんでも受け入れてくれる場所」と紹介されたのとは対照的に、新しいものを受け入れること、何かに夢中になることをどこか恐れている雰囲気が、田舎にはあります。だから、都会で流行っていることを安易に田舎へ持ち込むことの無謀さを地方出身者はわかっているんですね。

沼津と同じくらいの規模の町で育った私には諫める周囲の気持ちもわかるし、でも打ち込めることが見つからなくて何かに夢中になりたい千歌の気持ちもわかる。

 

下妻物語」とかでもあった話ですが、結局、東京でならリトルボーピープの服を着ていても「まぁこんな人もいるよね」程度で済むし辛くなっても他に受け皿、要するに同好の士も見つけられるけど、田舎なら迫害の対象になってしまう。

悪目立ちすることが好ましくないのはヨハネ回でも触れられていますが、自己実現の形を誤れば、学生生活を棒に振ってしまう可能性もあるのです。コミュニティに縛られるのは田舎の持つ特性の一つですね。

 

 

「何かに夢中になりたくて。何かに全力になりたくて。脇目も振らずに走りたくて。でも、何をやっていいのかわからなくて。(第1話アバン)」

 

千歌の冒頭の台詞は地方の若者を包む無気力感、憂鬱を端的に表しています。

これは都会で暮らす人間が感じている「周りにはたくさんの物があって、物質的に恵まれているからこそ何に手を出していいかわからない」ではなく、「周りには何もないし、限られた選択肢の中に夢中になれるものがない」状況が、この作品のスタートラインにあることを提示しているのですね。穂乃果と千歌では生まれから住環境から前提条件が全く違っているのです。

だから、サンシャインは見かけ上は無印のストーリーラインを丁寧になぞっているようでいて、実は全く違った文脈が横たわっているのである。

 

第6話で廃校を阻止するために自分たちのPVを作ることになったAqoursの面々。

紆余曲折して、最終的に風景や観光名所を映す(=旧来の観光産業的な売り出し方)のではなくて、人の温かさや伝統、土着的な行事とスクールアイドル文化を融合させた映像を作り上げます。これは「ここに来ればこういう人たちと会える、触れ合える」という売り出し方を選択したということなのです。

だからこの回は、十代の少女たちが打ち出したの生き残りの戦略が、土地自体のアピールではなく、そこで暮らす人々や固有の文化こそがコミュニティの基盤なんだ、というメッセージ性の強い回だったと思うのです。その際の千歌のモノローグがまた心を打たれる。

 

 

「私心の中でずっと叫んでた。助けてって。ここには何もないって。でも違ったんだ。追いかけてみせるよ。ずっとずっと。この場所から始めるんだ!(第6話)」

 

 

これはラブライブサンシャインという作品における強烈なパンチラインだと思うのですね。

つまり、千歌ちゃんに仮託した地方の少女たちが、一度は自分の住む町に絶望して、そして受け容れる再生の物語を第6話まで使って描いていると思うのです。

そして第7話以降で東京との格差を体感し、最終的に共生するのか代理戦争するのかわからないですが、ラブライブサンシャインは「あまちゃん」と同じく地方再生の物語となっていくと思う。

無印が割と少女たちの部活動という狭く閉じた輪の中で理事長以外の大人たちの介入を得ずに進んでいったのと比べて、サンシャインでは親、兄弟、近所の人たちといったコミュニティのつながりがより色濃く描かれているのも無関係でないと思う。

 

自分たちの住む町を受け入れ、立ち上がったAqoursが東京との格差、規模の違い、全国における自分たちの立ち位置を目の当たりにする様子が「TOKYO」「くやしくないの?」で描かれていますが、第9話以降、どうやって相克していくのか。

 

私がそうであるように、地方にある倦怠感や停滞感を肌身で感じ、街のピークが高度経済成長以前でとっくに終わった第一次、第二次産業の街から都会に出てきた人たちにとって無印とサンシャインは心に刺さる作品になっていると思います。 

三年生も仲間に入ってくることですし、これからの物語に期待ですね。